とりとめ

遠い将来の思い出/やや近い将来への忘備録

藤垣(編)『科学技術社会論の技法』

藤垣裕子(編)『科学技術社会論の技法』東京大学出版会(2005)


買ったのは学部生時代だったと思うから、もう10年前か。
本書は当然ながら、学問として種々の問題を分析する方法論を提示したものである。しかし読んでみて、科学技術の現場に携わる自分としては分析の方法論よりも結果、すなわち科学技術と社会との境界でどういった事象が起こりうるかに関心があると気づいた。以下はそれらを抽出することを主眼にまとめる。

まえがき

科学技術社会論は、科学/技術と社会との境界で起こる問題を分析する扱う学問分野。境界問題の特徴として「文化の拘束」が挙げられている。
この点はCollinsのゴーレムシリーズでも度々言及されていたように思う。

科学技術社会論の扱う境界領域の問題の場合,専門家,市民,行政,NGO,企業といったステークホルダー(利害関係者)の関係が,各国の文化およびその歴史的経緯によって違ってくる以上,やはり科学/技術の問題であっても文化の拘束からけっして自由ではないことが自覚されることになる.

また、境界問題は「グレーゾーン」であり、その意思決定を民主化することが必要であるとしている。

まだ科学者にとっても解明途中であり,科学者にも長期影響が予測できないような状況で,何らかの公共的意思決定を行う必要がでてきている.これがグレーゾーンである.専門家にも答えられない問いに対する意思決定を行うのだから,その意思決定の場は,行政と専門家のコミュニティに閉じられていてはならないのである.

そのためには、「『いつでも』『厳密な』答えを出してくれる」という「固い科学観」を(科学者・市民双方が)修正する「専門主義への反省の視点」が必要とされる。これは、下記のような視点から、問題を再構成することによって可能となる。

  • フレーミング:利害関係者によって問題の語り方、状況の定義の仕方が異なること
  • 妥当性境界:判断や責任の基準が集団によってことなること
  • 状況依存性

科学的事実は,科学者共同体が同意する実験上,解釈上の条件に依存して成立する

成立条件が忘れられて過度な一般化がされがち。

社会の問題解決に必要なデータとは,理想的条件に状況依存したデータではなく,社会的現場において妥当な,現場状況に状況依存したデータのほうであるということ.

  • 変数結節

II 解題: Advanced-Studiesのために

事例分析の前にこちらから読む。

種々の問題を相対化、再構成するなかで、事例横断的に現れる問題の「同型性」として、以下が挙げられる。

科学の特性に関する認識ギャップから生じる問題

作動中の科学

科学の知見は常に更新されるものであり、完全に説明がつくことはないという認識が共有されていない問題。

例えば水俣病の原因は,1956年の最初の患者発見から数十年,タリウム説,セレン説,マンガン説,など多く出された.(略)これは,科学的知識がつねに現在進行形で形成され,時々刻々つくられ,書き換えられ,更新される,という性質からすればまったく正常なことである.しかし,原因物質がころころと変わることが報道されると,なぜか人びとは科学に対する「信頼を失う」という傾向をもつ.

その弊害として、要因が確定的でないが故に、問題があっても何の対策も講じられない場合のあることが挙げられる(I部第1章)。

そして科学(者)の,完璧さを期して止まないこの「時間超越性」と,行政の科学に確定的な結論を求める「待ちの姿勢」とが重なると,その両者がいわば共鳴しあって定常常態に達し,ことが先にすすまなくなる.

妥当性境界

評価、判断や責任の基準がコミュニティによって異なる(という認識が共有されていない)ことによる問題。

工学者の妥当性境界からみると,そのような崩壊がおこることは「工学的には予測できなかった」となる.しかし,法律の妥当性境界からみると,そのような状況下での「予見可能性」「職責の範囲」「結果回避可能性」について法的責任が問えるかどうかが焦点となる.そして市民のもつ妥当性境界は,それらとはまた別の地域住民の立場から,「科学技術者はここまでの責任を負ってしかるべき」という主張をするだろう.このように,境界領域で生じる問題は,既存共同体の妥当性境界の衝突が観察されるのである.

異なる専門家同士や、専門家と市民との「協働」に際しては、この妥当性境界の差異をお互い認識するところから始まるとしている。

問題解決の仕組み

第2種の過誤

上記の「待ちの姿勢」による第2種の過誤(見逃し)の問題。これを避けるために、

(A) 科学的不確かさが残っていても対応するシステムと,(B) 同時並行して科学的究明を続けていくシステムと,さらに(C) 新知見がでてきたときの責任の分担システム

の構築が必要としている。

不確実性下の責任

予測できなかったことに対する責任は誰がどうとるかという問題。
また、専門家コミュニティ(ジャーナル共同体)に対しては誠実な振る舞いが、市民にとっては不誠実に映る場合がある問題。

例えばある物質が人体に有害であるか否かの判定が科学者に求められているとしよう.科学者は,自分の属するジャーナル共同体の基準に照らし合わせて,その基準に合致するには,「まだ実験データが足りない」「きちんとした結果を出すには時間がかかる」と判断するとしよう.(略)ところがそれを聞いた市民の側は,「すぐに結果がほしいのに,結果を出し惜しんている」「データを隠しているのでは」という反応をすることがある.

これを避けるために、科学者は「ジャーナル共同体への誠実さだけでは,公共の問題に対峙できないことを知」必要がある。また、前項のシステムを構築することが必要としている。

I 事例分析

第1章 水俣病事例における行政と科学者とメディアの相互作用

上述の「作動中の科学」「第2種の過誤(待ちの姿勢)」の問題が挙げられている。
原因物質についての「学説が『ころころ変わった』という類の論難」については、科学者の伝え方の問題も挙げられている。

例えば学会発表など仲間内で話すときには,「この先はいまだよくわからない,しかしここまではわかった」という語り方をする.しかし専門家集団の外に出たときには,こうした語り方が通用しにくいと考え,〈一般の人びとに受け入れられやすい語り方〉,すなわち確定的な色彩の強い語り方をしてしまう,ということになる.
 こうした語り方はしかし,いったん「内部の事情」が公になるや,かえって科学者たちの信頼性を傷つけることになる.

第2章 イタイイタイ病問題解決にみる専門家と市民の役割

水俣病と比して成功した要因の一つとして、専門家(弁護士、科学者)と市民が立ち入り調査を通じて継続的に関与したことが挙げられている。
また、上述の「不確実性下の責任」(ジャーナル共同体への誠実が市民への不誠実になる)が挙げられている。

第3章 もんじゅ訴訟からみた日本の原子力問題

科学裁判の側面をもつ行政訴訟は、司法が科学的妥当性を直接判断する立場(実体的判断代置方式)ではなく、行政官庁による認可の過程が適切であるかを判断する立場(判断過程統制方式)というのが学会の主流。それは、科学の素人である裁判官は鑑定人の証言の正しさを判断できないから。これは専門家の「専門技術的裁量」(工学的判断)を容認することになるが、行政側の専門家のみの判断が肯定されるのは問題。

第6章 遺伝子組換え食品規制のリスクガバナンス

遺伝子組み換えの規制(カタルヘナ議定書ほか)に際しては、事前警戒原則(予防原則)や社会的リスクの考慮をめぐって欧米間、南北間の対立が生じている。

  • 社会的リスク(格差拡大など)を考慮すべき(途上国) vs 生物学的リスクに限るべき(先進国)
  • 証拠が不十分といって措置を控えるべきではない(事前警戒原則:欧州)vs 十分確かめられた証拠(健全な科学)に基づくべき(米国)
フレーミング

この背景には集団による価値観(フレーミング)の違いがある。

  • 欧州・途上国:輸入国・中小規模生産者の損失を懸念
  • 米国・先進国:自由な貿易の阻害、輸出国・組換え食品生産企業の損失を懸念

これにより、欧州・途上国は社会的リスクを含めようとしており、逆に米国・先進国は(保護主義の口実になりかねないとして)これを除こうとしている。
また、事前警戒原則 vs 健全な科学は生物学的リスクに向けたものであるが、双方とも社会経済的懸念を除くためにこれを主張している部分もある。

問題点
  • 社会経済的利害の対立のために生物学的議論を拡大適用している。
  • 健全な科学といった「固い科学観」は現実的でない。
    • 社会的リスクは客観的に評価できないと言っているが、そんなことはない。
    • 普遍性のある科学的評価のみすべき(すなわち、生物学的リスクはそういう評価が可能)というのは、科学の状況依存性や不確実性を軽視している。
    • 科学的な評価であっても、社会が何を重視するかの価値観に影響されていること(価値依存性)を無視している。

そもそもカタルヘナ議定書におけるリスク評価の対象範囲に社会的リスクを含めず,自然科学的・生物学的なものに限るという選択自体が,社会的リスクを避けるべき重大なリスクとみなさないという1つの価値判断であることも見逃してはならない.

土木学会誌 2020年12月号 特集:災害情報の新たなステージへ

http://www.jsce.or.jp/journal/thismonth/202012.shtml


京大防災研 矢守先生、静岡大 牛山先生の寄稿は、両先生の立ち位置を理解するのによいと感じた。
他には、東大 関谷先生の「避難の心理モデル」が興味深かった。

災害情報は防災・減災の「主役」なのか? ─「行動」・「体感」・「過去」とのブリッジあってこそ─

矢守 克也(京都大学 防災研究所巨大災害研究センター 教授)

  • 情報(避難勧告・指示など)は避難のきっかけの主役ではない。
  • にもかかわらず、災害のたびに情報の改善ばかりが試みられてきた。
  • 情報を生かすには行動、体感、過去とのブリッジが必要。

「災害対策は(ハザード)情報の高度化ばかりが着目されるが、情報と行動の橋渡しが機能しなければ意味をなさない」といった指摘は、コンサルタントとしても身につまされるところ。

「行動」とのブリッジ―「避難スイッチ」

「避難スイッチ」とは、行政から与えられる避難情報とは別に、気象や河川情報、身近な変異、周囲の人の言動の三つを主たる素材として、自分たちの「逃げどき」を具体的かつあらかじめ決めておくことを指す。

  • 避難スイッチを作るための住民ワークショップを、これまで繰り返し開催してきた。
  • 使い道が認識されていない情報は、公開されても全く注目されない。


気象や河川情報といった一般的な情報は、避難スイッチの1/3の素材でしかないというのが興味深い。口コミなど、身近な情報の方が行動に結びつきやすいというのは、災害に関わらずみられることのように思う。
だから、ワークショップのような草の根の活動が重要なのは理解できるが、一方でそれを特定の先生方が津々浦々でやるわけにもゆかないので、どう制度化するのかが課題とも感じた。安易に行政や教育の現場に担わせようとするのも現実的でないし。

「体感」とのブリッジ―平熱・微熱・高熱

災害情報は、それが示す体感や現実と結び付いていないと役には立たない。

  • 最近の災害がありありと記憶されているうちに、近辺の当時の様子(ため池の水位、気象情報など)を共有するワークショップを開催。

「過去」とのブリッジー「既往最大」との比較

  • 既往最大となるような降雨が増えてきており、またそのような場所で犠牲者が出やすいこともわかってきた。
  • 住民が既往最大値を把握して、予想雨量との比較ができるような情報提供の仕方が必要。


最近では、防災科研クライシスレスポンスサイトでも「大雨の稀さ」を出すようになっており、絶対値でなく統計量を参照する意義は(差し当たり専門家の間では)広まっているように思う。
一方で、住民にとってみると、統計の期間(50~100年)は個人の記憶に比べると長すぎるため、既往最大と言われても実感が湧くのかはやや疑問。〇年に1回といった、統計分野特有の指標も、そのままでは使いづらいように感じる。

風水害の災害情報の有効性と課題

牛山 素行(静岡大学防災総合センター)

  • 風水災の犠牲者も何らかの避難行動をとっていたと推察される場合も多い。「避難させる」ことを志向した危険情報の拡充は、必ずしも状況の改善につながらない。
  • 自宅からの立ち退きをしなければ却って助かったケースも想定される。避難はすればよいというものではない。
  • 犠牲者は多くが低地など、水害の起こりうる場所で発生している。
  • 一方、住民の多くは居住地域の危険性を適切に把握できていない。
  • 行政機関で防災業務にあたる人材の育成、強化が不足している。

Collins・Pinch『迷路のなかのテクノロジー』

Harry Collins and Trevor Pinch著、村上陽一郎平川秀幸 訳、『迷路のなかのテクノロジー』、化学同人、2001。

学部時代の授業の参考書。科学を扱った同著者の『七つの科学事件ファイル――科学論争の顛末』(化学同人、1997。以下、「前作」)の続編で、技術を扱う。

序論――技術のゴーレム

科学はゴーレム

科学は救世主でも悪魔でもなく「ゴーレム」である。

それは力持ちである。日々毎日少しずつ強くなる。命令は聞くし、仕事は替わってくれるし、安全を脅かすあらゆる敵から、人間を守ってもくれる。しかし、それは不細工で扱い難く、危険でさえある。

われわれの思い描くゴーレムは、邪悪なものではないが、愚か者である。ゴーレム科学は、したがって、その誤りのゆえに非難されてはならない。誤っているのはわれわれ自身なのである。ゴーレムが最善を尽くしているなら、非難はできない。しかし、過剰な期待を彼に抱いてはならない。力持ちではあるが、ゴーレムはわれわれの技術の産物であり、われわれの作業の結果だからだ。

科学論の分野における原理のうち、本書で導入される3項目が提示される。

実験の悪循環

「実験が正しい理論を導く」という考え(反証主義)を否定するもの。日常的には、想定する理論に基づいて実験が行われ、それからかけ離れた結果は誤差として排除されてしまうので、実験は元々あった理論をますます強化することにしかならない。

一つの実験が疑う余地のないような結果を得る、ということは困難であり、それは、何が正当な結果であるべきか、ということを知らないままに、ある実験が正当に行われたかどうかを判断することができないからである。

前作でも、歴史的な科学実験が実はそんなにキレイに理論を(あるいは理論が間違っていることを)証明したわけではないことが繰り返し述べられてきた。思えばちょうど自然科学史の講義を受けていたころ、学生実験でデジタルマルチメーター(デジマル)の値が各班でぴったり一致などしない事実に「科学に絶対はない」ことを感じ取ったのが、科学論/専門家論を考えるようになった出発点だったように思う。

離れていることが、魔力を増す

科学技術も、論争から離れた立場からは単純化されて、明快/純粋なものにみえてしまうということ。

激しい論争の中心に近づけば近づくほど、そう簡単にこういうものだとは言えなくなり、複雑に思われてくるものである。

証拠の置かれた文脈

問題意識によって、実験結果の解釈が肯定的にも否定的にもなりうるということ。

社会が科学を作る

科学のパラダイムは、科学者をとりまく社会(外的歴史)によってもたらされる。技術はその程度がより強く、その議論/解釈は国家や経済的環境などと密接に結びついている。

非専門家の専門性

6~7章では、いわゆる「現場」の人間が持つ専門性が技術に貢献している例が提示されている。科学的教育や資格を受けていないがために、通常専門家とはみられていない人びとを技術の意思決定に組み込むことは、民主的という意味に限らず、純粋に技術的な発展という点においてもよいことである。
これを達成するには「専門性は専門家にこそある」という非専門家の誤解を解く必要がある一方、専門性が真面目な関心と置き換えられるなどというポピュリズムに行き着くのも危険である。これらは科学や技術を神秘的なものとみなす傾向から生まれる。その解決のためには、科学技術が「ゴーレム」的なものであることが(専門家、非専門家ともに)理解される必要がある。


コリンズが主題として挙げている専門家論。
学部以来、私が気にかけて、課題感を持っている点の1つがここにある。ノーベル賞がもてはやされ、研究者は「すごい」「頭が良い」と、違う世界の人間のように評される。一方、危機に際しては、御用学者などといってそもそも専門家の意見が軽視されたり、学者は現場を理解していないなどと言われたりもする。専門家の側も、政治家/民衆/他分野の研究者は理解がないなどと言ったり、普段専門としない政治などについても人一倍理解があるかのような発言をしたりする。
そうした(いわゆる)専門家と非専門家の隔絶に対し、ある種の専門家の端くれになろうとしている私はどのようにふるまったらよいのか、どうしたら隔絶を埋められるのか。「科学がゴーレム」であるという認識は、その手立てとなりうるように感じるが、ではこれが専門家と非専門家の双方に理解されるにはどうすればよいのか。答えはまだみつけられていない。

6章 子羊の科学――チェルノブイリとカンブリア地方の牧羊農夫たち

チェルノブイリ原発事故に伴う放射能汚染について、政府や科学者の態度が地元農家の不信を招いてしまった話。

農夫たちにとって、科学者たちとの出会いは幸せなものではなかった。彼らは裏切られたと感じたのである。科学者たちの傲慢さや、ころころ変わる見解にもうんざりしていた。彼らの科学への信頼は砕けてしまったのである。これは、科学者が素人との関係を悪くしてしまった一例だ。その教訓は、われわれすべてに重要である。

  1. 事故後、政府は繰り返し早期収束の見通しを強調したが、実際にはそうはならず、これが政府への不信を招いた。
    • その根拠となるモデルは不正確であることが(後から)分かった。
    • 政府は伝統的に、パニックによる危険の方が直接的なリスクよりも大きいと考えていたため、パターナリスティックな不安除去に走った。
  2. 政府が農家に要求した規制策も、農家の事情に対する理解を欠いたものであった。
  3. 農家たちは、科学者たちの検討が必ずしも明快で確定的なものではないことを知っていた。
    • 複雑な要因によって測定値がばらつくなど、首尾一貫した結果を得ることが難しい実態を目にしていた。
    • 現場の知見を見過ごしているがゆえに、検討が意味のないものなってしまっていることを見抜いていた。
  4. にも関わらず、科学者たちは結果をあたかも疑いようのないものかのように述べており、それが農家たちの科学者への不信を招いた。
    • 結果として、その後生じた問題に対する科学者たちの説明は、はなから信用されなくなってしまった。
    • 科学者たちが政府の手先であるとか、(科学者からみれば)明らかに間違った見立てが広まる要因にもなった。

科学者たちは不確実性を認めるのではなく、長い目で見れば維持できない自信過剰な主張をしたのである。やがて前言が撤回されたときには、このことが、科学者たちはただ雇い主である政府の言いなりになっているだけだという新たな科学の見方に、農夫たちが飛びついてしまうのを促したのである。

上記まとめの前段(1, 2)と後段(3, 4)は共通する問題であるが、政策と科学技術という点でやや視点が異なっている。

blog.tinect.jp

b.hatena.ne.jp

研究者のモチベーションは、「世界初」へのこだわりなんだろうな。

時々、研究者としての道を歩み始めている先輩や同期ーNさん、S君、Kさんや、アカデミックでやってゆく意志と実力を兼ね備えた(ように見える)院生達と自分を引き比べて、卑屈な気持ちになる。

私には民間企業(そして今の業界)を選んだ積極的な理由もあるのだが、学振に落ちてアカデミックでやってゆく自信が到底なかったのも事実。
彼らからすれば、私はアカデミックの世界から脱落して、サラリーマンに「逃げた」存在であり続けるのだろう。

(最近当時の論文がジャーナルの賞を貰ったとの連絡を受け、ちょっと嬉しくなったが、それで研究者の素質があったとはやはり思えなかった。所詮IFもない国内誌であるし、7割は恩師のしたことだから。)

一方、思い出したので書き留めておくが、私がリスクを押し切ってアカデミックを選ぶモチベーションを持てなかったのは、「世界初」へのこだわりがなかったからのように思う。
「ほんのちょっとのことでも、今これを知っているのは世界で自分だけ」というのをモチベーションとして恩師も挙げていたし、どこかの凄い博士も

「博士号をとる」とは、この世の誰もが未だに発見していない未踏領域を開拓する経験をもつこと
https://mobile.twitter.com/ONODA_in_Onodac/status/1069916332903161856

と言っていた。

しかし、自分は知らなかった事を知るの時の知的興奮は、他人がそれを知っているか否かでそこまで変わるものだろうか(自分の知見の増分に変わりはないのに?)。

あるいはそれが変わるとして、「世界初」と言っても、それは地球上の人類という限られたコミュニティ内で最初に見つけただけのことである。その事象自体は発見する以前からずっと存在していたし、どこかの宇宙人の間では既に常識かも知れないのだが、研究者諸賢はそれで満足できるのだろうか。

研究者が新しい知見を発見することの意義は、人類がそれにアクセスできるようになったという事実であって、それが誰の手によるものかは全く関係がない(宇宙人に教えてもらったって良いのだ)。
特にテクノロジーは、発見しただけではまだ必要としている人にアクセスできず、実用化というプロセス(もちろん、これも誰がやったかは関係ない)とセットになって初めて人類にとっての意義が生まれる。

技術の種を作る人と、種を蒔いて育てる人とのいずれになるかは単に趣味の問題であって、アカデミックの人間が(実業界の人間もだが)特別視されるべき理由はどこにもないのだ。

会社には大学の教員に転職したOBもいると聞き、私もあわよくば35才位でそういうチャンスが巡って来ないだろうかと少し期待もしている。
しかし仮に巡って来たとして、こういう考えのある以上、私が実際にアカデミックの世界に足を踏み入れられるかは疑問である。
もちろん希少価値のある知見でもってドヤ顔したい気持ちはあるが、それもある程度の人にとって頼れるのが自分、くらいの珍しさで十分と思ってしまうし。

岩瀬大輔『入社1年目の教科書』

岩瀬大輔、『入社1年目の教科書』、ダイヤモンド社、2011。

推薦図書の一つ。普段こういう自己啓発書は絶対読まないが、まあいい機会だろう。

最初に著者が「死守」してきたという3つの原則が書かれている。とりあえず大事そうなので全部書いとく。

原則①:頼まれたことは、必ずやりきる

頼まれたことは何があっても絶対にやりきる。
自主的に、督促される前に全部やりきる。

初手から「『何があってもやりきるんだ!』という強い意志を持って仕事に臨み」とすげえ熱気。だが次の原則との整合性をみるに、ここでの「やりきる」は「完成させる」というより「とりあえず一通り形にする」といった程度の意味だろう。

原則②:50点で構わないから早く出せ

提出をゴールと考えるのではなく、最初のフィードバックを貰う機会という気持ちで

斜に構えた自分が最初に思ったのは「50点の仕事は『やりきった』といえるのか?」ということだが、上記のような「やりきる」の解釈をすればまあ納得。
先生に提出した原稿がまるで別物になって返ってくるなんてのは修士の頃からザラだったので、指摘を受けることへの耐性がついたのは院生生活の一つの恩恵だと思う。

原則③:つまらない仕事はない

意味と目的を理解すれば工夫のしがいはあるよという事と、野球選手が素振りするみたいに基礎体力をつけるのも大事だよという事の2点。

そういえば二次面接では「つまらない・やりたくない仕事にどう対処しますか」的なことを聞かれた。その時は「悩んでもしょうがないので粛々とやります」みたいに答えたのだけど、あれは後者の見方として受け止めてもらえたということか?


以下個別具体的な仕事論。例によって気になったものだけ。

2. メールは24時間以内に返信せよ

メールは結論を最初に書けとも。まあ後回しにしても忘れちゃうし、ここ1年やってみようとしている「Getting Things Done」の一理念(2分以内にできることはその場でやってしまう)にも適っている。

PENGUINITIS - GTD

6. 仕事の効率は「最後の5分」で決まる

上司との打ち合わせ中はメモを取り、終了後合意事項をまとめて見せに行く。

前段は当然として、後段は一度その場を離れてからというより、打ち合わせの最後に内容を確認する方が良いように思う。上司が5分後まだいるとは限らないし、間をおかず何度も聞きに来られるのもうざったいので。

7. 予習・本番・復習は3対3対3

会議は事前にテーマを共有し、各自アイデアを考えておく。会議中はその場でアイデアを考えるのではなく、議論の場にする。終了後は議事録により決定事項を共有する。
会議以外にも、準備と復習に本番と同程度の比重を置く。

8. 質問はメモを見せながら

分からないことはまず自分で調べて、自分なりの解釈と聞きたいこととを紙に書いてから聞く。

12. アポ取りから始めよ

アポイントは数週間先にしか取れないことも多いので、準備作業をする前にまず取る。
最初に期限を決めると作業の効率が上がる。

14. 「早く帰ります」宣言する

早く帰りたいときは早めに・正直に言えば良い。
話としてはこれだけだが、帰って2, 3時間勉強したいので「9時」に帰るとか、6時に帰る代わりに土曜日出社するとか書いてるあたりに著者のワーカホリックぶりが伺える。

16. 仕事は盗んで、真似るもの

他の人の行動をみて良いなと思ったら、感心するだけで終わらず、すぐに真似する。

17. 情報は原典にあたれ

フットワーク軽く、関わりのない人・組織にも臆せず聞いてみよ。

頼み方さえ誤らなければ、同業他社やライバル企業でも、情報を提供してくれるところはあります。くれぐれも「教えてくれるはずがない」などと、最初から諦めないでください

19. コミュニケーションはメール「and」電話

メールだけだと読んでなかったりするので、大事なことは会ったり電話したりで念押しを。

BSでも営業職の人なんかよく電話してくるけど、こういうことなのだろう。ただ口頭では印象には残っても記録に残らないので、やはり使い分けが大事か。

23. 目の前だけでなく、全体像を見て、つなげよ

企業全体がどう動いているかを把握し、自分の業務が企業価値向上にどうつながるかを考える。
手始めに財務諸表を読み、自分の会社がどういった事業が成長・縮小しているのか理解する。
さらに業界・日本・世界がどう動いているか・どうあるべきか考える。

社会は分業で成り立っているんだから、こういう「経営者目線」を従業員に求めるなよとも思う。しかし企業相手のコンサルをする場合、その仕事は企業の(従業員ではなく)経営者が相手だろうから、経営者のものの見方を理解するのは必要なことなんだろう。

29. 新聞は2紙以上、紙で読め

紙で読むのは興味のない情報も入ってくることと、現物が溜まるため毎日継続する圧力になることから。

社会人になると、どうしても日経新聞にシフトする人が多くなります。(中略)しかし、年配者の購読が多い朝日を見ると、医療や介護の記事を厚くするなど、ビジネスパーソン向けの日系とは色合いが違います。

朝日新聞などは思想が肌に合わなかったりで、あまり読みたいとは思わない。しかし社会にはこれを購読しその思想に同調する人も少なくないわけで、彼らの考えを理解するには朝日を読むことも必要なのだろう。

36. 感動は、ためらわずに伝える

勉強になった部分、感動した部分、初めて知ったことを具体的に

38. ミスをしたら、再発防止の仕組みを考えよ

「気をつける」というのは行動改善に対して最も効果がない、という記事をどこかで見た。

46. 同期とはつき合うな

同期とつき合うデメリットは、比較して優劣を感じてしまうということと、視線が外へ向かわなくなってしまうこと。

同期で飲みに行っても、会社や上司のゴシップで終わってしまうことが少なくありません。傷の舐め合いや足の引っ張り合いになることさえあります。
そんな非生産的なことに大事なあなたの時間を費やすくらいなら、ぜひとも他流試合をしてください。夜の自由な時間は、できるだけ社外の人とつき合うようにしたほうがいいと思います。

飲みに行くのなんて単なる遊びであって、そこに生産性を求めてどうするのだろうと思える。

この本を見て散見されるのは、著者にとっては休息もプライベートもより良い仕事(ないし「成長」)のためにあるのだろうということ。「生きるために働く」のではなく「働くために生きる」人は研究者界隈にもよくいるが、この本が46万部も売れている(そして内定者への推薦図書などにされている)ことからすると、経済界にはこういう考え方の人が想像以上に多いのではないかと思われる。マジかよ。

三崎亜記『となり町戦争』

一地方公務員が、何をさせられたらそんな達観モードになってしまうのか? 理不尽に憤ったり、それを回避しようとしたり、そういった考えうるプロセスは「戦争」の一語で全てすっとばされてしまうのか? 所詮小さな地方自治体の政策、というスケールに過ぎないのに? ではなぜ今さら涙を流す?
物語世界の人物なのにその外(読者)の感覚でものを言ったり、そのくせ「喪失」に対しては妙に割りきりが良かったり、主人公も大概だ。何の小説を読んでも感じるのは、結局のところ人間の理解できなさである気がする。心身に余裕があればそれを楽しむこともできるのであろうが、特に面白い物語を読んでる際はその世界に入り込んでいる訳で、そんな俯瞰的見方をするゆとりはあるはずもない。

本多勝一『日本語の作文技術』

私見水色で記述する。

本多勝一、〈新版〉日本語の作文技術、朝日新聞出版、2015。
初版は1982年。ネット(togetter)上で見かける。どのページかは忘れたが、「著者の思想はアレだけど、この本の実用性は確か」みたいなことが言われていたように思う。

第一章 なぜ作文の「技術」か

まず本書で対象とするのは、文学的な文章ではなく、事実的な文章のみであることが述べられている。ではどういった文章が事実的な文章かということについて、以下のような図式が引用されている。

(文学的)
詩歌
純文学
随筆
大衆小説
ーーーーー0
論文
評論
解説記事
新聞記事
(事実的)

これは朝日新聞社の社内向けの報告(堀川直義『文章のわかりやすさの研究』、非公開)からの引用だそうだが、論文が中間に近く、新聞記事が一番事実的とされているのが面白い。論文だってデータの解釈・取捨選択によって著者の創作的要素が入るからか、あるいは皆自分の書くものが一番事実的だと思っているということだろうか。
また本書の目的は

読む側にとってわかりやすい文章を書くこと

であり、そのためには慣れ親しんだ日本語への感覚に頼らず、英作文のように技術を習得することが必要としている。本書を機に、文章の組み立てをもっと意識的にやってゆきたいものだ。

後は日本語の論理性などについて著者の問題意識がつづられているが、あんまり興味がわかないので差し当たり読み飛ばしておく。

第二章 修飾する側とされる側

修飾語(主語を含む)と被修飾語の間が離れている文は分かりにくいので直結すべし、という内容。特に

修飾・被修飾の距離が離れすぎると、書いている当人もつい忘れてしまうことがある。つまり、修飾の言葉が出てきながら、被修飾語がそれを受ける形をなしていないのだ。

という点は留意したい。さすがに主語と述語が不揃いなのは気づくだろう(と思いたい)が、修飾語がどこにかかるかはより意識するべきだろう。

第三章 修飾の順序

修飾語を並べる順番として4つの原則が示されている。とりあえず特に重要とされる最初の2つだけ。

①節を先にし、句をあとにする。

ここでの節と句は以下の定義による。

「節」は一個以上の述語を含む構文とし、「句」は述語を含まない文節(文章の最小単位=橋本文法)とする。

例えば

横線の引かれた白い厚手の紙

では「横線の引かれた」が節、「白い」「厚手の」が句。句(白い)が先に来ると、それが本来の被修飾語(紙)ではなく節の一部(横線)にかかっているように見えるから、というのが理由とされている。(今、この文を「その理由は~とされている」と書こうとして修正した)

②長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。

前章で出た、修飾語と被修飾語の距離が空かないように、ということにも通じる。

(a)明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
(b)この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。

この二例では、明らかに(b)の方がわかりやすい。

また、英語などのように主語を特別扱い(主語と述語の直結を優先)する必要はないとの指摘にも留意したい(上の例文でも(b)の方が主語と述語が遠い)。


第四章 句読点のうちかた

1 マル(句点)そのほかの記号

読点以外の記号についての諸注意。とりあえず気になったものだけ。

中黒

・は並列や同格の語をつなぐのにどんどん使うべきとの意見。
今まで・は読点より結び付きが強く、「作用・反作用」のようにワンセットのものに使うというイメージを持っていたので、単なる列挙に・を使うのには何となく違和感がある。

句点

句点は超重要なので、文の末尾には必ずつけるべし。
特に短文の場合はよく省いてしまうが、文ではなく「語」とみなせば句点はつけなくても良いはずだ(現にこの本も章題に句点はついていない)。問題はその峻別が曖昧なことだろう。受験生時代、名前も覚えていない予備校講師が「15字を越えたら念のため句点をつけよ」と言っていたのが思い起こされる。

テン(読点)の統辞論

読点の打ち方の二大原則が述べられている。

原則1 長い修飾語

長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ

というもの。

原則2 逆順

上述の修飾語の順番の原則②に反して、短い修飾語を先に持ってきたときにうつ。
「◯◯は、~した」という打ち方はこれにあてはまるそうだ。主語も修飾語の一つに過ぎないという、著者の主張がここにも表れていると感じる。
ここで、わざわざ短い修飾語を前に持ってくるのは、書き手がそれを強調したいからである。即ち読点には、こうした書き手の意志を表す役割(「筆者の思想としての自由なテン」)もあるとされる。これは逆に言えば

重要でないテンはうつべきでない

ということでもあろう。

章の残りは(かなりの分量を割いて)その他の読点の用法の分析や、二大原則の検証にあてられているようだがスキップ。

第五章 漢字とカナの心理

使い分け

漢字だらけの文も、かなばかりの文も分かりにくい。漢字とかなの使い分けには、語の境をはっきりさせる「分かち書き」(英語とかで単語の間をあけること)の効果がある。こうした観点から

  • 漢字の前後ではかなを使い、かなの前後では漢字(もしくはカタカナ)を使う。
  • 常用漢字でないからといって、熟語の一部をかなに変換(両棲類→両せい類とか)しない。

ことを提示している。

前者については、いわゆる表記ゆれを気にして漢字かかなかで統一しようとするのは「愚かなこと」としている。しかし表記ゆれ自体、あると気になって読みづらくなるという話も聞くので、これは考えどころ。
常用外の漢字は、特別見慣れない・読み方が難しいものでなければそのままで良いと自分でも思う。しかしその線引きも人それぞれなので、結局は相手に合わせてということか。

送りがな

送りがなは趣味の問題であって、文科省などが規定しようとすること自体「ナンセンス」としている(が、同じ文書であまりばらばらになるのはよくない)。

送りがなとはやや異なる話かもしれないが、熟語へのかなのつけ方について、以前こんなツイートを見た。
https://twitter.com/rpm_prince/status/1019473146879983616

後はカタカナの宛て方などについて書かれているが省略。

第六章 助詞の使い方

チョムスキーとか主語否定論についての前置きは省略。

題目を表す係助詞「ハ」

係助詞「ハ」は格助詞「ガ」「ノ」「ニ」「ヲ」の代わりに使えるという話。
大事なのは主格を表す「ガ」との関係で、「ハ」を使うと主格を文の後の方に持ってきたり、文中で複数回出てくる同一の主格を束ねたりできる。
分かりやすい文章のためにはこれを使って、主格も他の修飾語と同列に、上記の原則(長いのが先とか)に沿って並べるのがよい。

突然現れた裸の少年を男たちが見て男たちがたいへん驚いた。
→突然現れた裸の少年を見て男たちはたいへん驚いた。

顕題と陰題についてはスキップ。

対象(限定)の係助詞「ハ」

否定の動詞の対象をはっきりさせる上で係助詞「ハ」は重要。
特に以下の「①を書いて当人は②か③のつもりでいる」場合に注意。

①彼は飯をいつも速く食べない(ハなし)。
②彼は飯をいつも速く食べない。
③彼は飯をいつも速く食べない。
③’彼は飯をいつも速く食べない。
(中略)
③を言おうとして③'ととられることもあるから、そんなときは文章を書きかえる方がよい。たとえば③’は―
③''彼はいつも飯を速く食べない。

(実際の①~③は丸囲みのローマ数字)

また「私は三年前までは週末には本は読まなかった。」のように「ハ」が多すぎると文が分かりづらくなるので、2つ程度に留めるのがよい。

マデとマデニ

マデ=until、マデニ=byをちゃんと使い分けましょうという話。

接続助詞の「ガ」

「ガ」は①事柄のつなぎ目や②前置き、③補充的説明を表すのにもつかわれるが(←この「ガ」は前置き)、こうした逆説以外の「ガ」はなるべく使わず、文を切るようにしたほうが良いという話。

並列の助詞については、正直ピンと来ないのでスキップ。

第七章 段落

「段落はかなりのまとまった思想表現の単位」であり、「だいぶながくなったからそろそろ改行しようか、などと言って行を変えて(外山滋比古『日本語の論理』)」はダメだという。
内容的にはほぼこれだけで、文中のどの部分が一つの「思想表現の単位」になるかは書き手・読み手どちらから見ても自明なように言っている。しかし本当にそうであれば分かりやすい文章を書こうと苦労することもないわけで、これには納得いかない。
一方章だてについて、「まず目次を作るつもりで、おおざっぱに章を立ててみる」というのは、修士論文を書く時にも言われた話。

またブログやSNSでの改行の扱いは別途考える必要がありそう。

第八章 無神経な文章

紋切型

ここでの著者の主張は、慣例的に使われている表現に頼るなということ。

雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。

またこれから派生して、何気なく使った表現が事実や自らの感覚に反していないか注意せよとも言っている。

テストのプリントなどを配るとき、子どもたちは主のいない机の上にも、そっと置く。
(中略)
子どもらは本当に「そっと」置いているだろうか。(中略)事実は、子どもらは他の子に配る配り方と同様なしぐさで配り、特別に「そっと」置いてはいないのではないか。

前段については、よく知られた表現の方が意図を正確に伝えやすいという面もあるのではなかろうか。必要以上に比喩表現を引っ張り出して来るのが目障りということか。
後段は使った表現の事が文字通り起きたかというよりも、何気なく当てはめた表現が本当に伝えたいこととマッチしているのかという点で留意したい。

自分が笑ってはいけない

読者の共感を得たいときこそ自らの感情(笑い、怒り、悲しみ等)は文に表出させず、読者がその感情を抱くような描写を真面目な筆致で行うべし。

おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。

書く方が感情むき出しだと、読み手は温度差を感じて「サムく」見えてしまうということか。これは文章だけでなく、話し言葉でも重要だと思う。

その他の節と「第九章 リズムと文体」はポイントの抽出・応用がしづらいのでスキップ。