愚痴、あるいは写真を撮ることの効用
【16日付の記事を書いた際の所感】
まずは16日付けの記事は確か半分も行かないうちに飽きて、残りは月の終盤になんとか埋めた事を告白する。
というか今この部分を書いているのは11月の半ばである。20日という日付は適当に設定した。
ネットでよく取りざたされる男女の違いの例に漏れず、男の私は普段愚痴をこぼしてもあまりスッキリしない。
むしろ言葉にするとその事が却って意識され、余計にげんなりするような気がする。
基本聞かされる側も楽しいことではないだろうし、ある程度意識して愚痴は言わないようにしている。
しかるに学振に落ちた直後、上記のような内容を綴りたい衝動にかられたのは、恐らくショックを受け止めかねて、書くことでこれを分散させようという意識が働いたのだと思う。
もちろん数日後には割と気にならなくなった事なので、所詮はいわゆる絶望などどは程遠い一過性のショックなのだが、とにかくそのときは負荷が高かったのだ。
普段愚痴の種になることをわざわざ拾い上げないのは、そうしないでも一応飲み込んで風化するまで置いておける程度の負荷という事だろう。
メモリが抱えきれないデータを一旦ハードディスクにスワップするような感じか。
【写真を撮ることへの敷衍】
デジカメが普及して以来、観光地で写真を撮りまくるのはほとんど当たり前のようになった。
スマートフォンの台頭以降はちょっとした事件に遭遇しても、皆こぞって写真や動画をとるようになった。
一方でせっかくの絶景を全然味わっていないとか、野次馬根性丸出しで事件を真剣に受け止めていないように見える人々への違和感はぽつぽつ聞き及ぶし、自分でもその気持ちは解る。
しかしきっと自分自身含め、そういった折で思わずカメラを構えてしまうのも、襲来した感動や衝撃を何とか処理しようとして編み出した人間の知恵なのだろう。
……というような事を、実際の10/20前後に書こうと考えたと記憶している。