とりとめ

遠い将来の思い出/やや近い将来への忘備録

研究者のモチベーションは、「世界初」へのこだわりなんだろうな。

時々、研究者としての道を歩み始めている先輩や同期ーNさん、S君、Kさんや、アカデミックでやってゆく意志と実力を兼ね備えた(ように見える)院生達と自分を引き比べて、卑屈な気持ちになる。

私には民間企業(そして今の業界)を選んだ積極的な理由もあるのだが、学振に落ちてアカデミックでやってゆく自信が到底なかったのも事実。
彼らからすれば、私はアカデミックの世界から脱落して、サラリーマンに「逃げた」存在であり続けるのだろう。

(最近当時の論文がジャーナルの賞を貰ったとの連絡を受け、ちょっと嬉しくなったが、それで研究者の素質があったとはやはり思えなかった。所詮IFもない国内誌であるし、7割は恩師のしたことだから。)

一方、思い出したので書き留めておくが、私がリスクを押し切ってアカデミックを選ぶモチベーションを持てなかったのは、「世界初」へのこだわりがなかったからのように思う。
「ほんのちょっとのことでも、今これを知っているのは世界で自分だけ」というのをモチベーションとして恩師も挙げていたし、どこかの凄い博士も

「博士号をとる」とは、この世の誰もが未だに発見していない未踏領域を開拓する経験をもつこと
https://mobile.twitter.com/ONODA_in_Onodac/status/1069916332903161856

と言っていた。

しかし、自分は知らなかった事を知るの時の知的興奮は、他人がそれを知っているか否かでそこまで変わるものだろうか(自分の知見の増分に変わりはないのに?)。

あるいはそれが変わるとして、「世界初」と言っても、それは地球上の人類という限られたコミュニティ内で最初に見つけただけのことである。その事象自体は発見する以前からずっと存在していたし、どこかの宇宙人の間では既に常識かも知れないのだが、研究者諸賢はそれで満足できるのだろうか。

研究者が新しい知見を発見することの意義は、人類がそれにアクセスできるようになったという事実であって、それが誰の手によるものかは全く関係がない(宇宙人に教えてもらったって良いのだ)。
特にテクノロジーは、発見しただけではまだ必要としている人にアクセスできず、実用化というプロセス(もちろん、これも誰がやったかは関係ない)とセットになって初めて人類にとっての意義が生まれる。

技術の種を作る人と、種を蒔いて育てる人とのいずれになるかは単に趣味の問題であって、アカデミックの人間が(実業界の人間もだが)特別視されるべき理由はどこにもないのだ。

会社には大学の教員に転職したOBもいると聞き、私もあわよくば35才位でそういうチャンスが巡って来ないだろうかと少し期待もしている。
しかし仮に巡って来たとして、こういう考えのある以上、私が実際にアカデミックの世界に足を踏み入れられるかは疑問である。
もちろん希少価値のある知見でもってドヤ顔したい気持ちはあるが、それもある程度の人にとって頼れるのが自分、くらいの珍しさで十分と思ってしまうし。