とりとめ

遠い将来の思い出/やや近い将来への忘備録

藤垣(編)『科学技術社会論の技法』

藤垣裕子(編)『科学技術社会論の技法』東京大学出版会(2005)


買ったのは学部生時代だったと思うから、もう10年前か。
本書は当然ながら、学問として種々の問題を分析する方法論を提示したものである。しかし読んでみて、科学技術の現場に携わる自分としては分析の方法論よりも結果、すなわち科学技術と社会との境界でどういった事象が起こりうるかに関心があると気づいた。以下はそれらを抽出することを主眼にまとめる。

まえがき

科学技術社会論は、科学/技術と社会との境界で起こる問題を分析する扱う学問分野。境界問題の特徴として「文化の拘束」が挙げられている。
この点はCollinsのゴーレムシリーズでも度々言及されていたように思う。

科学技術社会論の扱う境界領域の問題の場合,専門家,市民,行政,NGO,企業といったステークホルダー(利害関係者)の関係が,各国の文化およびその歴史的経緯によって違ってくる以上,やはり科学/技術の問題であっても文化の拘束からけっして自由ではないことが自覚されることになる.

また、境界問題は「グレーゾーン」であり、その意思決定を民主化することが必要であるとしている。

まだ科学者にとっても解明途中であり,科学者にも長期影響が予測できないような状況で,何らかの公共的意思決定を行う必要がでてきている.これがグレーゾーンである.専門家にも答えられない問いに対する意思決定を行うのだから,その意思決定の場は,行政と専門家のコミュニティに閉じられていてはならないのである.

そのためには、「『いつでも』『厳密な』答えを出してくれる」という「固い科学観」を(科学者・市民双方が)修正する「専門主義への反省の視点」が必要とされる。これは、下記のような視点から、問題を再構成することによって可能となる。

  • フレーミング:利害関係者によって問題の語り方、状況の定義の仕方が異なること
  • 妥当性境界:判断や責任の基準が集団によってことなること
  • 状況依存性

科学的事実は,科学者共同体が同意する実験上,解釈上の条件に依存して成立する

成立条件が忘れられて過度な一般化がされがち。

社会の問題解決に必要なデータとは,理想的条件に状況依存したデータではなく,社会的現場において妥当な,現場状況に状況依存したデータのほうであるということ.

  • 変数結節

II 解題: Advanced-Studiesのために

事例分析の前にこちらから読む。

種々の問題を相対化、再構成するなかで、事例横断的に現れる問題の「同型性」として、以下が挙げられる。

科学の特性に関する認識ギャップから生じる問題

作動中の科学

科学の知見は常に更新されるものであり、完全に説明がつくことはないという認識が共有されていない問題。

例えば水俣病の原因は,1956年の最初の患者発見から数十年,タリウム説,セレン説,マンガン説,など多く出された.(略)これは,科学的知識がつねに現在進行形で形成され,時々刻々つくられ,書き換えられ,更新される,という性質からすればまったく正常なことである.しかし,原因物質がころころと変わることが報道されると,なぜか人びとは科学に対する「信頼を失う」という傾向をもつ.

その弊害として、要因が確定的でないが故に、問題があっても何の対策も講じられない場合のあることが挙げられる(I部第1章)。

そして科学(者)の,完璧さを期して止まないこの「時間超越性」と,行政の科学に確定的な結論を求める「待ちの姿勢」とが重なると,その両者がいわば共鳴しあって定常常態に達し,ことが先にすすまなくなる.

妥当性境界

評価、判断や責任の基準がコミュニティによって異なる(という認識が共有されていない)ことによる問題。

工学者の妥当性境界からみると,そのような崩壊がおこることは「工学的には予測できなかった」となる.しかし,法律の妥当性境界からみると,そのような状況下での「予見可能性」「職責の範囲」「結果回避可能性」について法的責任が問えるかどうかが焦点となる.そして市民のもつ妥当性境界は,それらとはまた別の地域住民の立場から,「科学技術者はここまでの責任を負ってしかるべき」という主張をするだろう.このように,境界領域で生じる問題は,既存共同体の妥当性境界の衝突が観察されるのである.

異なる専門家同士や、専門家と市民との「協働」に際しては、この妥当性境界の差異をお互い認識するところから始まるとしている。

問題解決の仕組み

第2種の過誤

上記の「待ちの姿勢」による第2種の過誤(見逃し)の問題。これを避けるために、

(A) 科学的不確かさが残っていても対応するシステムと,(B) 同時並行して科学的究明を続けていくシステムと,さらに(C) 新知見がでてきたときの責任の分担システム

の構築が必要としている。

不確実性下の責任

予測できなかったことに対する責任は誰がどうとるかという問題。
また、専門家コミュニティ(ジャーナル共同体)に対しては誠実な振る舞いが、市民にとっては不誠実に映る場合がある問題。

例えばある物質が人体に有害であるか否かの判定が科学者に求められているとしよう.科学者は,自分の属するジャーナル共同体の基準に照らし合わせて,その基準に合致するには,「まだ実験データが足りない」「きちんとした結果を出すには時間がかかる」と判断するとしよう.(略)ところがそれを聞いた市民の側は,「すぐに結果がほしいのに,結果を出し惜しんている」「データを隠しているのでは」という反応をすることがある.

これを避けるために、科学者は「ジャーナル共同体への誠実さだけでは,公共の問題に対峙できないことを知」必要がある。また、前項のシステムを構築することが必要としている。

I 事例分析

第1章 水俣病事例における行政と科学者とメディアの相互作用

上述の「作動中の科学」「第2種の過誤(待ちの姿勢)」の問題が挙げられている。
原因物質についての「学説が『ころころ変わった』という類の論難」については、科学者の伝え方の問題も挙げられている。

例えば学会発表など仲間内で話すときには,「この先はいまだよくわからない,しかしここまではわかった」という語り方をする.しかし専門家集団の外に出たときには,こうした語り方が通用しにくいと考え,〈一般の人びとに受け入れられやすい語り方〉,すなわち確定的な色彩の強い語り方をしてしまう,ということになる.
 こうした語り方はしかし,いったん「内部の事情」が公になるや,かえって科学者たちの信頼性を傷つけることになる.

第2章 イタイイタイ病問題解決にみる専門家と市民の役割

水俣病と比して成功した要因の一つとして、専門家(弁護士、科学者)と市民が立ち入り調査を通じて継続的に関与したことが挙げられている。
また、上述の「不確実性下の責任」(ジャーナル共同体への誠実が市民への不誠実になる)が挙げられている。

第3章 もんじゅ訴訟からみた日本の原子力問題

科学裁判の側面をもつ行政訴訟は、司法が科学的妥当性を直接判断する立場(実体的判断代置方式)ではなく、行政官庁による認可の過程が適切であるかを判断する立場(判断過程統制方式)というのが学会の主流。それは、科学の素人である裁判官は鑑定人の証言の正しさを判断できないから。これは専門家の「専門技術的裁量」(工学的判断)を容認することになるが、行政側の専門家のみの判断が肯定されるのは問題。

第6章 遺伝子組換え食品規制のリスクガバナンス

遺伝子組み換えの規制(カタルヘナ議定書ほか)に際しては、事前警戒原則(予防原則)や社会的リスクの考慮をめぐって欧米間、南北間の対立が生じている。

  • 社会的リスク(格差拡大など)を考慮すべき(途上国) vs 生物学的リスクに限るべき(先進国)
  • 証拠が不十分といって措置を控えるべきではない(事前警戒原則:欧州)vs 十分確かめられた証拠(健全な科学)に基づくべき(米国)
フレーミング

この背景には集団による価値観(フレーミング)の違いがある。

  • 欧州・途上国:輸入国・中小規模生産者の損失を懸念
  • 米国・先進国:自由な貿易の阻害、輸出国・組換え食品生産企業の損失を懸念

これにより、欧州・途上国は社会的リスクを含めようとしており、逆に米国・先進国は(保護主義の口実になりかねないとして)これを除こうとしている。
また、事前警戒原則 vs 健全な科学は生物学的リスクに向けたものであるが、双方とも社会経済的懸念を除くためにこれを主張している部分もある。

問題点
  • 社会経済的利害の対立のために生物学的議論を拡大適用している。
  • 健全な科学といった「固い科学観」は現実的でない。
    • 社会的リスクは客観的に評価できないと言っているが、そんなことはない。
    • 普遍性のある科学的評価のみすべき(すなわち、生物学的リスクはそういう評価が可能)というのは、科学の状況依存性や不確実性を軽視している。
    • 科学的な評価であっても、社会が何を重視するかの価値観に影響されていること(価値依存性)を無視している。

そもそもカタルヘナ議定書におけるリスク評価の対象範囲に社会的リスクを含めず,自然科学的・生物学的なものに限るという選択自体が,社会的リスクを避けるべき重大なリスクとみなさないという1つの価値判断であることも見逃してはならない.