本多勝一『日本語の作文技術』
私見は水色で記述する。
本多勝一、〈新版〉日本語の作文技術、朝日新聞出版、2015。
初版は1982年。ネット(togetter)上で見かける。どのページかは忘れたが、「著者の思想はアレだけど、この本の実用性は確か」みたいなことが言われていたように思う。
第一章 なぜ作文の「技術」か
まず本書で対象とするのは、文学的な文章ではなく、事実的な文章のみであることが述べられている。ではどういった文章が事実的な文章かということについて、以下のような図式が引用されている。
(文学的)
詩歌
純文学
随筆
大衆小説
ーーーーー0
論文
評論
解説記事
新聞記事
(事実的)
これは朝日新聞社の社内向けの報告(堀川直義『文章のわかりやすさの研究』、非公開)からの引用だそうだが、論文が中間に近く、新聞記事が一番事実的とされているのが面白い。論文だってデータの解釈・取捨選択によって著者の創作的要素が入るからか、あるいは皆自分の書くものが一番事実的だと思っているということだろうか。
また本書の目的は
読む側にとってわかりやすい文章を書くこと
であり、そのためには慣れ親しんだ日本語への感覚に頼らず、英作文のように技術を習得することが必要としている。本書を機に、文章の組み立てをもっと意識的にやってゆきたいものだ。
後は日本語の論理性などについて著者の問題意識がつづられているが、あんまり興味がわかないので差し当たり読み飛ばしておく。
第二章 修飾する側とされる側
修飾語(主語を含む)と被修飾語の間が離れている文は分かりにくいので直結すべし、という内容。特に
修飾・被修飾の距離が離れすぎると、書いている当人もつい忘れてしまうことがある。つまり、修飾の言葉が出てきながら、被修飾語がそれを受ける形をなしていないのだ。
という点は留意したい。さすがに主語と述語が不揃いなのは気づくだろう(と思いたい)が、修飾語がどこにかかるかはより意識するべきだろう。
第三章 修飾の順序
修飾語を並べる順番として4つの原則が示されている。とりあえず特に重要とされる最初の2つだけ。
①節を先にし、句をあとにする。
ここでの節と句は以下の定義による。
「節」は一個以上の述語を含む構文とし、「句」は述語を含まない文節(文章の最小単位=橋本文法)とする。
例えば
横線の引かれた白い厚手の紙
では「横線の引かれた」が節、「白い」「厚手の」が句。句(白い)が先に来ると、それが本来の被修飾語(紙)ではなく節の一部(横線)にかかっているように見えるから、というのが理由とされている。(今、この文を「その理由は~とされている」と書こうとして修正した)
②長い修飾語は前に、短い修飾語は後に。
前章で出た、修飾語と被修飾語の距離が空かないように、ということにも通じる。
(a)明日は雨だとこの地方の自然に長くなじんできた私は直感した。
(b)この地方の自然に長くなじんできた私は明日は雨だと直感した。この二例では、明らかに(b)の方がわかりやすい。
また、英語などのように主語を特別扱い(主語と述語の直結を優先)する必要はないとの指摘にも留意したい(上の例文でも(b)の方が主語と述語が遠い)。
第四章 句読点のうちかた
1 マル(句点)そのほかの記号
読点以外の記号についての諸注意。とりあえず気になったものだけ。
中黒
・は並列や同格の語をつなぐのにどんどん使うべきとの意見。
今まで・は読点より結び付きが強く、「作用・反作用」のようにワンセットのものに使うというイメージを持っていたので、単なる列挙に・を使うのには何となく違和感がある。
句点
句点は超重要なので、文の末尾には必ずつけるべし。
特に短文の場合はよく省いてしまうが、文ではなく「語」とみなせば句点はつけなくても良いはずだ(現にこの本も章題に句点はついていない)。問題はその峻別が曖昧なことだろう。受験生時代、名前も覚えていない予備校講師が「15字を越えたら念のため句点をつけよ」と言っていたのが思い起こされる。
テン(読点)の統辞論
読点の打ち方の二大原則が述べられている。
原則1 長い修飾語
長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンをうつ
というもの。
原則2 逆順
上述の修飾語の順番の原則②に反して、短い修飾語を先に持ってきたときにうつ。
「◯◯は、~した」という打ち方はこれにあてはまるそうだ。主語も修飾語の一つに過ぎないという、著者の主張がここにも表れていると感じる。
ここで、わざわざ短い修飾語を前に持ってくるのは、書き手がそれを強調したいからである。即ち読点には、こうした書き手の意志を表す役割(「筆者の思想としての自由なテン」)もあるとされる。これは逆に言えば
重要でないテンはうつべきでない
ということでもあろう。
章の残りは(かなりの分量を割いて)その他の読点の用法の分析や、二大原則の検証にあてられているようだがスキップ。
第五章 漢字とカナの心理
使い分け
漢字だらけの文も、かなばかりの文も分かりにくい。漢字とかなの使い分けには、語の境をはっきりさせる「分かち書き」(英語とかで単語の間をあけること)の効果がある。こうした観点から
- 漢字の前後ではかなを使い、かなの前後では漢字(もしくはカタカナ)を使う。
- 常用漢字でないからといって、熟語の一部をかなに変換(両棲類→両せい類とか)しない。
ことを提示している。
前者については、いわゆる表記ゆれを気にして漢字かかなかで統一しようとするのは「愚かなこと」としている。しかし表記ゆれ自体、あると気になって読みづらくなるという話も聞くので、これは考えどころ。
常用外の漢字は、特別見慣れない・読み方が難しいものでなければそのままで良いと自分でも思う。しかしその線引きも人それぞれなので、結局は相手に合わせてということか。
送りがな
送りがなは趣味の問題であって、文科省などが規定しようとすること自体「ナンセンス」としている(が、同じ文書であまりばらばらになるのはよくない)。
送りがなとはやや異なる話かもしれないが、熟語へのかなのつけ方について、以前こんなツイートを見た。
https://twitter.com/rpm_prince/status/1019473146879983616
後はカタカナの宛て方などについて書かれているが省略。
第六章 助詞の使い方
チョムスキーとか主語否定論についての前置きは省略。
題目を表す係助詞「ハ」
係助詞「ハ」は格助詞「ガ」「ノ」「ニ」「ヲ」の代わりに使えるという話。
大事なのは主格を表す「ガ」との関係で、「ハ」を使うと主格を文の後の方に持ってきたり、文中で複数回出てくる同一の主格を束ねたりできる。
分かりやすい文章のためにはこれを使って、主格も他の修飾語と同列に、上記の原則(長いのが先とか)に沿って並べるのがよい。
突然現れた裸の少年を男たちが見て男たちがたいへん驚いた。
→突然現れた裸の少年を見て男たちはたいへん驚いた。
顕題と陰題についてはスキップ。
対象(限定)の係助詞「ハ」
否定の動詞の対象をはっきりさせる上で係助詞「ハ」は重要。
特に以下の「①を書いて当人は②か③のつもりでいる」場合に注意。
①彼は飯をいつも速く食べない(ハなし)。
②彼は飯をいつもハ速く食べない。
③彼は飯をいつも速くハ食べない。
③’彼は飯をいつも速くハ食べない。
(中略)
③を言おうとして③'ととられることもあるから、そんなときは文章を書きかえる方がよい。たとえば③’は―
③''彼はいつも飯を速くハ食べない。
(実際の①~③は丸囲みのローマ数字)
また「私は三年前までは週末には本は読まなかった。」のように「ハ」が多すぎると文が分かりづらくなるので、2つ程度に留めるのがよい。
マデとマデニ
マデ=until、マデニ=byをちゃんと使い分けましょうという話。
接続助詞の「ガ」
「ガ」は①事柄のつなぎ目や②前置き、③補充的説明を表すのにもつかわれるが(←この「ガ」は前置き)、こうした逆説以外の「ガ」はなるべく使わず、文を切るようにしたほうが良いという話。
並列の助詞については、正直ピンと来ないのでスキップ。
第七章 段落
「段落はかなりのまとまった思想表現の単位」であり、「だいぶながくなったからそろそろ改行しようか、などと言って行を変えて(外山滋比古『日本語の論理』)」はダメだという。
内容的にはほぼこれだけで、文中のどの部分が一つの「思想表現の単位」になるかは書き手・読み手どちらから見ても自明なように言っている。しかし本当にそうであれば分かりやすい文章を書こうと苦労することもないわけで、これには納得いかない。
一方章だてについて、「まず目次を作るつもりで、おおざっぱに章を立ててみる」というのは、修士論文を書く時にも言われた話。
またブログやSNSでの改行の扱いは別途考える必要がありそう。
第八章 無神経な文章
紋切型
ここでの著者の主張は、慣例的に使われている表現に頼るなということ。
雪景色といえば「銀世界」。春といえば「ポカポカ」で「水ぬるむ」。カッコいい足はみんな「小鹿のよう」で、涙は必ず「ポロポロ」流す。
またこれから派生して、何気なく使った表現が事実や自らの感覚に反していないか注意せよとも言っている。
テストのプリントなどを配るとき、子どもたちは主のいない机の上にも、そっと置く。
(中略)
子どもらは本当に「そっと」置いているだろうか。(中略)事実は、子どもらは他の子に配る配り方と同様なしぐさで配り、特別に「そっと」置いてはいないのではないか。
前段については、よく知られた表現の方が意図を正確に伝えやすいという面もあるのではなかろうか。必要以上に比喩表現を引っ張り出して来るのが目障りということか。
後段は使った表現の事が文字通り起きたかというよりも、何気なく当てはめた表現が本当に伝えたいこととマッチしているのかという点で留意したい。
自分が笑ってはいけない
読者の共感を得たいときこそ自らの感情(笑い、怒り、悲しみ等)は文に表出させず、読者がその感情を抱くような描写を真面目な筆致で行うべし。
おもしろいと読者が思うのは、描かれている内容自体がおもしろいときであって、書く人がいかにおもしろく思っているかを知っておもしろがるのではない。
書く方が感情むき出しだと、読み手は温度差を感じて「サムく」見えてしまうということか。これは文章だけでなく、話し言葉でも重要だと思う。
その他の節と「第九章 リズムと文体」はポイントの抽出・応用がしづらいのでスキップ。