世界を喪失するということ
【岡田淳、『二分間の冒険』】
偶然手にとって、初めて読んだ。
主人公悟が、黒猫ダレカに連れられて行った世界。敵の策略を破り、協働するに至った仲間たち。彼女のために竜を倒す決意をし、共に旅をし、共に仲間を導いて竜を打ち負かし、お互い世界で一番確かなものと思いたい存在となった、ヒロインかおり。世界で一番確かとされる自分自身。そしてそんな自らがそう考えるがゆえに共に確かである、それら全てを含む世界。
しかし悟が元いた校庭に戻った瞬間、その世界も、仲間も、かおりも消えてしまった。声をかけてきたかおりも、消えてしまった世界のかおりではない。
【物語が終わる寂しさ】
物語(小説に限らず、漫画、アニメ、RPGなど何でも)を読み終えた後は、いつも寂しい。今まで同じ世界に存在し、感情の機微を共にしてきた人々はいつもあるページの途中でふっつりと消え失せ、余白に取り残された私はとりかえしのつかなさに叫びたくなる。
だからいつも、本の残りが少なくなってくると嫌になる。しかし恐らくその寂しさの予感から目をそらしたいがために、終盤は益々のめり込み、貪るように読んでしまう。読み終えた後こうして雑記をしたためたり、すぐ次の物語に手を出したりするのも、この寂しさから立ち直ろうとしての事である。
【死もまた世界の喪失か?】
RPGやアニメシリーズなど、滞在時間の長い世界を失った際は、毎回立ち直れるまでの時間も長い。しかしそれも精々数週間である。今回は周到にも次の本が用意されているから、今現在の寂しさから脱するのには、あまり時間を要しないだろう。
しかしこれが悟のように、自らが本当に暮らした世界を失う場合はどうだろうか。異世界へ連れて行ってくれる黒猫がいないとしても、例えば死はそれにあたるかも知れない。即ち他人の死は彼らが世界から消える事だろうが、死ぬ側にとっては反対に世界が消え自らは無に取り残されることになるのではなかろうか。
ともかくも戻ってきた悟少年は、旅した世界を丸ごと失ってしまった。私のことなどお構いなしに消えてゆく他の物語の人々と異なり、彼とはあたかも、物語の終わりの、世界を喪失する寂しささえ共有できているように感じられた。別人のかおりに相対し、彼は何を考えたのだろうか。
しかしその悟自身も、やはり例に漏れず数ページ後、〈おわり〉の文字とともにいなくなってしまった。
愚痴、あるいは写真を撮ることの効用
【16日付の記事を書いた際の所感】
まずは16日付けの記事は確か半分も行かないうちに飽きて、残りは月の終盤になんとか埋めた事を告白する。
というか今この部分を書いているのは11月の半ばである。20日という日付は適当に設定した。
ネットでよく取りざたされる男女の違いの例に漏れず、男の私は普段愚痴をこぼしてもあまりスッキリしない。
むしろ言葉にするとその事が却って意識され、余計にげんなりするような気がする。
基本聞かされる側も楽しいことではないだろうし、ある程度意識して愚痴は言わないようにしている。
しかるに学振に落ちた直後、上記のような内容を綴りたい衝動にかられたのは、恐らくショックを受け止めかねて、書くことでこれを分散させようという意識が働いたのだと思う。
もちろん数日後には割と気にならなくなった事なので、所詮はいわゆる絶望などどは程遠い一過性のショックなのだが、とにかくそのときは負荷が高かったのだ。
普段愚痴の種になることをわざわざ拾い上げないのは、そうしないでも一応飲み込んで風化するまで置いておける程度の負荷という事だろう。
メモリが抱えきれないデータを一旦ハードディスクにスワップするような感じか。
【写真を撮ることへの敷衍】
デジカメが普及して以来、観光地で写真を撮りまくるのはほとんど当たり前のようになった。
スマートフォンの台頭以降はちょっとした事件に遭遇しても、皆こぞって写真や動画をとるようになった。
一方でせっかくの絶景を全然味わっていないとか、野次馬根性丸出しで事件を真剣に受け止めていないように見える人々への違和感はぽつぽつ聞き及ぶし、自分でもその気持ちは解る。
しかしきっと自分自身含め、そういった折で思わずカメラを構えてしまうのも、襲来した感動や衝撃を何とか処理しようとして編み出した人間の知恵なのだろう。
……というような事を、実際の10/20前後に書こうと考えたと記憶している。
ナンセンスなこと
【学振に落ちた愚痴】
学振に落ちた。
何かに失敗したからといって、投げ遣りになるのはナンセンスである。
しかし今回の事は、大学受験以来の契機であるような気がするから、感じた事を率直に書き留めておかねばならない。と言い訳をして愚痴を吐き出す。
日本学術振興会特別研究員制度は、「我が国の優れた若手研究者に対して~研究に専念する機会を与え、研究者の養成・確保を図る制度です」。
D1とD2が共に応募するDC2に、D2の段階で特に惜しくもない落ち方をして、自分は研究者に向いてないと宣告された様な気がした(助成金一つの結果で丸ごとの適性を語るなんてナンセンスだ)。
一番低かったスコアは研究業績。次に研究者としての将来性。 マシだった研究計画は先生に散々添削してもらったのだから当然として、前二者はそのまま私個人の評価だろう(都合のいい部分だけ個人の責任に帰するなんてナンセンスだ)。
自分には研究者としての才能もないし(自らの不幸を才能や環境のせいにするなんてナンセンスだ)、24時間365日研究に打ち込まねばという理想の半分も努力して来なかった(ワークライフバランスをちゃんと考えないといけない今の時代に、そんな理想はナンセンスだ)。
自分がそんなに才能もない+努力もできない人間であることは、大学受験に失敗した時から判りきっていたことなのに(学部の同期はもっと優秀で、研究者への道を突き進んでいるのだから、大学名で決めつけるなんてナンセンスだ)、
どうして最高峰の頭脳がぶつかり合う研究の世界に(研究者、あるいは専門家は本当に分野で一番優秀な人種なのか? 専門性のある仕事をしようとしている身だからこそ、過当な専門家主義に陥るのはナンセンスだ)、
博士課程に来てしまったのか?(どうせ高校生~修士学生の間は、博士に進まないなんて選択肢を考えもしなかったんだから、今更そんなこと考えるのはナンセンスだ)
計算力学に求められる事
【偉い人が座談会で言ってた話】
○四力を横に串刺す―現実はほぼ全て複合問題
○これまでは詳細解析としてのみ→設計段階から、一からシミュレーションによる提案
むしろ設計者や解析担当といった縦割りを取っ払い、計算屋も設計をする
邦画の空気感
【同じ作品はあまり再読・再視聴しないけど】
「来春劇場公開の映画を、テレビドラマ向けに再構成した」という番組を観る。
ドラマ自体80分くらいあったはずだが、これはダイジェストだなと感じる瞬間が何度かあり、
とはいえ筋を知ってしまった以上普段の自分ならもう映画本編を観る気は無くなりそうな所を、今回はそうならなかった。
それはドラマで省略されたのは、邦画によくある(と思っている)空気感が醸し出される場面だろうと予想したからだ。
部屋に複雑な関係の人間が二人、目も合わさず、黙りこくって、物音もなく、時計の針の音が聞こえて来そうな数秒間。
自分が邦画の魅力と思っていて、だからこそ印象に残ってままあるものと思い込んでいるのかも知れない、そういう空気感。
詳しい人に聞けば小津安二郎(名前しか知らない)その他からそのルーツを教えてくれるかも知れないし、
そんな些末な事誰も気にしないと言われるかも知れないが、それはどうでも良い。
とにかく来年、この空気感を勝手に期待しつつ、劇場に足を運ぶ事としよう。覚えていたら。